工場の街


山梨市は工場の町といってピンとくる方はAGCの年齢レンジにはまっている方です。

そもそも山梨市駅前は富士シルクという大きい養蚕工場がありました。今は桃畑になってしまっているところも昔は桑畑でどの友達の所もおかいこを屋根裏部屋で飼えるように作ってある所が多く養蚕が峡東地区の主要産業だった時代です。富士シルクには大きい煙突がありこれが駅前のシンボルのようになっていました。私の子供時代は富士シルクの製糸工場独特のにおいと蒸気の風景につつまれていました。富士シルクは時代の変遷と共に廃工場になりました。富士シルクの大きな煙突を倒した様子は今も記憶に新しいです。そして跡地にはスーパーマーケットや今のはなみずきどおりが出来ました。

富士シルクの懐かしい工場の建物の雰囲気はもはや跡形もなく消えていますか鶴田製糸の工場跡に当時富士シルク工場の面影を知ることが出来ます。車通り沿いからだとわかりにくいのですが、自転車などで裏に入ってみるとすぐわかります。木造でおそらく繭などを煮たときの排水を流すためか工場の下に川が流れています。蒸気にいぶされた関係か壁はいつも湿り気があり茶色に見えます。

かいこといえば桑の実です。当時はおやつも今のようにスナック菓子だのハンバーガーなどない時代で駄菓子と並んで桑の実は学校帰りなどにつまむ最高のおやつでした。桑の実はあくまでも副産物で桑の葉が主産物でしたので平気で桑畑に入って桑の実をあさっていても許されました。のどかな農村地帯という感じです。味はブルーベリーのような味ですが中にはとても甘いものもありました。

 

日本カーボンの南側は昔は桑畑だった

 

工場の町山梨市は養蚕が敗退してもそれでも工場の町でした。今も駅の南側には日本カーボンの煙突がそびえ立っています。でも小学校時代最もインパクトがあったのはNEC山梨工場の誘致です。なぜインパクトがあったかというととにかく転校生がたくさん入ってきたからです。近隣にはNECの社宅が立ち並びたくさんの県外から引っ越してきた人が住むようになりました。人口の出入りが激しいことは町を都市化していきます。急速に進む都市化に子供心にわくわくしました。AGCの古い仲間にもNECに転勤してきた方のご子息がいました。NECは山梨市の雰囲気を大幅に「まち」に変えるインパクトを持っていました。つい先日NECが撤退したときには隔絶の感がありました。

今もたくさんの工場が山梨市では稼動しています。工場があれば人々の往来が盛んになり「まち」は成長しつづけます。そういう意味で当時NECを誘致した山梨市は「大英断」だったと思っています。